夫婦別姓……子供抜きの議論でいいのか

 経団連の戸倉会長が夫婦別姓を要求する会見をした。ビジネス上、トラブルが増えているとのこと。パスポートの記載と実名や、商談などの時の解釈の遅延などを挙げている。そのようなことがあることは事実であろうが、日本の伝統文化を考えた時、そこまでの問題なのであろうか。まず、思うのは経団連が音頭を取ることの、不自然さである。賃上げを要求された、保守派への仕返しを感じてしまう。
 男女平等とか女権の回復とかLGBTなど、性に関する意見が出ると、改善しなくてはならない意識を持ってしまう。夫と妻が対等であることは、当然の基本的人権だ。その人権の普及は多大な効果を生み出す。しかし、人間が動物であるという個体的差異を考えるとき、みな同一と考えることは将来に対して、多大な影響を及ぼす。自由を得た人間は苦労を忌避する。煩わしい社会を嫌い自由に個人の生活を求める。その一例が、婚姻を避ける・晩婚化する現象だ。少子化の最たる原因であることは、誰も理解しているが、破滅への道を突き進んでいる
 夫婦別姓にした場合を議論するとき、議論が夫と妻に集中して賛否が論じられている。二人だけであればどうでもよいかもしれない。商売上では、夫婦を証明することのトラブルのほうが反って増えるかもしれない。最大の問題は、子供である。子供はどちらの性を名乗るのであろうか。世帯主の姓を名乗るのが基本だが、一度崩れた堰は必ず崩壊する。夫と妻の間には、子孫が生まれた段階で確執が生まれる。まるで、生まれた段階で、離婚したときどちらが引取るかを決めるような苦渋がもたらされる。一番考えなくてはならないのは、将来を生きる子供のことである。巷での議論は寂しく、自分だけの自由な発想しかない。物心ついた子供は、自分の姓が片方の親であることに疑問を持つことは間違いない。
愛する母親であるが父親を、愛する父親であるが母親を、選らばざるを得ない運命を呪います。