テレビで芸能らしき番組が少なくなった。芸能で庶民に最も親しまれてきたのは、漫才と落語であろう。表面的には漫才はM-1などがあり、一見人気がありそうに見えるが、実態は悲惨だ。登竜門としてのM-1は実態は漫才ではなく、芸人養成番組でしか無い。20年近い年間王者を産んでいるが、漫才を生業としている人は僅かしかいない。彼らの多くは消えてしまった。生き残った者は何をしているかは、視聴者はよくご存じであろう。
自分の芸は忘れ、互いに他人の桜となる役割をひたすら務めている。見ていて気の毒になるが、彼らは本気でMCを目指して、恥をしもんでいる。その努力の結果、一握りのものが億万長者に出世している者もいる。大半は、番組の賑やかしとして、いつの間にかブラウン管から消え去る。テレビ局はとっかえひっかえ局相互に入れ替えて出演させる。一部の高額ギャラ者を除いて、生活を人質にタダ同然で利用する。
いつの間にか、どの局も同じ手法であるために、視聴者は目の前にさらされるものがスタンダードであると刷り込まされる。いつかのジャニーズのように同じ内容はどの局でも行われる。ジャニーズの場合はプロダクションが主導権を取りテレビを牛耳ったが、芸人の場合そのような後ろ盾は強くない。そこでは、安価で手軽な駒として芸人が利用される。
いつの間にかこの芸人スタイルが標準となり、視聴者の標準となった。テレビの安易な企画がまかり通り、高額な芸人を生み出し、消耗品としての芸人を乱造した。彼らに番組の企画・出演者などの主導権を奪われ、脆弱化した視聴者を人質に取られ、芸人にテレビは乗っ取られた。
かくしてテレビは、無芸大食の芸人のサロン・生活の場となった。漫才なんて、落語なんて、あほらしくてやってられない。素人の作ったユーチューブにも劣る番組が横行する。芸人が芸を忘れ、テレビは使命を忘れ、すべてのジャンルの番組がオチャラケ番組と化した。