メディアの実態……[7]〝知らなかった〟と、人の責任にするコメンテーター

 テレビはいろいろなテーマを取り上げる。特別の報道場番組でない昼間の番組、その中心はワイドショーであろう。正直、内容にはそれほど期待はしていない。しかし、その性格上から不安を感じる。出演者が、日ごろから知られているタレント性の高い人が多い。また、視聴者も比較すれば時計代わりに見る暇な人(失礼)が多い。何気なく見ているが、批判的な言動には興味を抱く。
 法や制度などの問題は、普通に生活していると興味も薄いし、分かりにくい。テレビがそれを取り上げることは、それで意味がある。そして分かりにくい問題は専門家の出演を仰ぐが、それも当然だろう。問題なのはコメンテーターと呼ばれる出演者だ。番組の性格からか芸人・タレントからタレント化した売れない評論家が多い。例えば、ある法律についての議論がある。大半は内容を「知らなかった」と言う。知らない視聴者に知らせる目的もあるので、知らなければ知らないと言ってよい。
 悪いのは、ここからだ。「当事者(政府)はもっとわかりやすく、詳しく説明をして欲しい」と、怒りを発する。日ごろ勉強もせず知らないことを、相手の説明不足が悪いと非難する。その挙句が、内容の本題を外して、相手(政府)批判に溜飲を下げる。
 少なくとも政府が絡んだ法律・制度は政府広報に掲示しているし、してきた。知らないのは、それを閲覧していないか、忘れているのだ。市民ならともかく、コメントをタレテ食っているのであれば、最低限の勉強はしておいて欲しい。現在のシステムでは、政府は事細かく一般市民に説明するすべがない。それを望むのであれば、どこかの権威主義国家のようにメディアを国営化するしかない。それが、いやだからメディアは正しく報道する責任があるはずだ。そのメディアが政府批判を真と信じての報道姿勢だから、国民のための法・制度が正しく伝わらない。
 〝知らなかった〟と自分の無知を、相手批判に転嫁する人物をモニターに長々映し出されては迷惑だ。

ディアの実態……[6]国民を政府の責任に誘導する

 「政府は何をしてくれる」と、何事につけ政府に責任を押し付ける。自立心のない国民は、すべて政府が何とかするもとか、何とかしてくれるとメディアに洗脳された。少し、生活が苦しければ支援給付金が当たり前と思っている。自由を求める国民が、あたかも社会主義国であるかの錯覚・誤解に不自然を感じなくなっている。そのような人は共産党に投票して、社会主義国を作ればいい(できるのであればだが……)。
 政府に依存する〝大きな政府〟を求めることは、社会主義社会を求めていることだ。中国を見れば明白だが、政府に規制され自由はない。しかし、見返りの平等があるわけでもない。国民は改めて、中国の現状を検証すべきだ。それをしないで、政府云々は虫が良すぎる。よしんば、政府の加護を厚くして、努力もしていない者を助けると、その財源は国民の税金だ。努力している人にとって、とんでもない税金だ。それで努力して改善するのであればまだしも、施しに慣れた人は簡単には改善しない。〝努力が水の泡となる〟で、努力するのも空しくなる。
 最近は、生活が苦しい、貧富の差が激しいなど実態を検証もしないで、政府の加護を求める意見を簡単に言う。世界と全てを比較せよとは言わないが、比較すれば日本は生活は苦しくもないし、貧富の差も激しくない。現に、ほとんどの人が呑気に自分の生活をしている。反乱を起こそうなどと思っている人は、過激派を除いて皆無だ。
 上記のような国民的ムードは誰が作ったのか。諸々の社会的きっかけはある。原因は様々で、人それぞれだ。それに取り組むのが政府であることは間違いない。それを政府の責任一筋に考えるのは、化石化人間だ。ここまで進んだグローバル世界に政府がすべて対応できるわけがない。それを何かに付け政府の責任と報道を続けるメディアの無知と作為が覗える。そうすることが視聴者に届きやすいし、安価に番組が作成できる。メディアは国民から補助金を得て、私腹を肥やす体質になり下がってしまった。〝人は、批判に一番興味を持つ〟

若者は、少子化問題は自身の老後に跳ね返ることを自覚しなくては……

 「子育て支援」関連法案が成立した。自民・公明の賛成、立憲民主党など野党の反対の末に成立した。財源は公的医療保険料に上乗せする。そのことが野党は増税と批判して反対した。極端に言うと何かをするために財源が必要な場合、増税するしか方法はない。「増税が嫌だから何もしないで良い」と言わなければ、反対者の意見は矛盾している。野党は政権を考えるのみであるからこのような批判が続く。
 折しも厚生省から出生統計が発表された。出生率1.20で過去最低となった。これまでの最低は1.26であった。23年の出生者は72万7277人であった。過去には200万人を超えた年もあったが、3分の1に激減した。
 東京都の出生率はついに1を下回って、全国最下位だ。少子化の原因は、婚姻数の減少と晩婚化にあることは明白だ。その象徴が東京都などの大都市だ。日ごろの将来を考えない、刹那的享楽体質が染みついた若者の集合は、「貧しく将来に希望が持てないから、結婚できない」というメディアによって作られた扇動に乗ってますます冗長する。都議選も近づいたが、政局を重視する候補ではなく、地域に密着した、日本の将来に展望をもたらす候補者に票を入れてほしいものだ。東京の出生率が1未満では、国の将来はない。
 人口が適切に保たれていなくては国は保てない。そのためには適切な子供は必要だ。子供を設けている家庭には支援すればよい。財源がないと言うなら独身の若者から税金を徴収すべきだ。若者たちの将来には、貢献していないのだから、それが平等というものだ。自由ばかり求めて将来に貢献しないのなら、今現在に貢献してもらうしかない。そうしないと、努力して子供を育てている若者に対して、将来的不平等だ。

メディアの実態……[5]話し方・間投詞

テレビには多くの分野の人物が登場する。耳障りの良い話し方には好感が持てる。反対に耳障りの悪い話し方の1つは、間投詞の連発であろう。「まあ」「えー」「やっぱり」「やはり」「あのー」「ネ」など連発する人がいる。また形容詞「たっぷり」「じっくり」「ていねいに」「とうぜん」「すごく」など必要のない修飾をするのは、局サイドの人物。
さすがに、局アナは訓練されていて、言葉遣いはできている。問題になるのは、司会者・MCと呼ばれる番組進行役とコメンテーターのレギュラーである。繰り返し連発する人が、繰り返し話をする。聞き辛いことこのうえない。司会者・MCはまず、話し方を克服しないとテレビに顔を出すべきでない。嫌悪感を煽るだけだ。せっかくの番組も見る気を失せる。
コメンテーターは局から依頼されて出演するのであろうが、レギュラーで出演すると繰り返し話し方に問題(癖)があると、これまた見る気を失せさせ嫌悪感を抱かさせる。特別、知見に秀でているのであるならともかく、普通の人なら即刻、交代していただきたい。
次にスポットで登場する、その分野の専門家だ。皮肉なことに、日ごろ話すことも仕事の一つであるはずの大学教授が、間投詞の連発が多いことだ。名誉教授・特別教授と名の付く人は、学生に教えることよりは自分の研究に専念しているのであろうが、「それでも…」と言いたくなる。そんな姿を見ていると、大学教授の授業はどのように行われているのかと、不安になってくる。教授する内容がほどほどで、話し方がこれでは学問としてのプライドが消し飛んでしまう。
いずれにしても番組はテレビ局が作成しているのであるから、まずは基本の視聴者にとって見やすく聞きやすい運営から見直してほしい。

区別ができない政治家--東京知事選

 東京知事選が近づいた。安芸高田市長の石丸が立候補表明した。その弁「地方から国を変えるために」、それなら地方都市の市長になれ。立憲民主党の蓮舫は「国政を改めるため」、それなら衆議院議員になれ。地方を本気で考えているのであれば、都政についても何もできない。地方の中堅都市市長になって、地方復興の施策に取り組めばよい。ましてや、国政を正すために都選に挑むなど、国民目線などさらさらない。
 地方の首長は、本人の能力以外にその地方の置かれている現状に大きく左右される。財政力のある自治体は、極端に言うと誰がやっても上手くいく。貧しい自治体は、誰がやっても上手くいかない。東京都など財力にあふれている自治体は、大きいから難しいと言うが、それはほんの一部であって決断力があれば誰でもいい。無から有を生み出す創造性はいらない。しかし、人的欠乏・財政的欠乏のどに悩まされている多くの自治体は、一歩も二歩も前の〝無から有を産む〟ことからスタートしなくてはならない。
現在の停滞を産んでいるのは、東京的大都市に準拠した発想で政治が行われ、国民が憧れているからだ。喧噪の中で時間を忘れ、便利で豊富な環境に囲まれていれば、自分の欲求に我を失い、気づけば孤独な生活に慣れてしまう。慣れて生きられればまだしも、将来に対処していないから、孤独なニヒルな老後どころか、哀れな国の世話にならなければ人生を終えられない一生が待っている。
東京都知事になろうとするのであれば、華やかな国政感覚ではなく、市民が死ぬとき「自分の人生は幸せだった」と思える人生を送れる政治をするべきだ。そこにはもはや自分の党がどうだこうだの感覚は邪魔になる。格好だけをつける政治家はいらない。

メディアの実態……[4]世論の誘導

 基本的にはメディアは事実を報道するもでなくてはならない。しかし、実態は自分の思いを持って世論に取り入ることを重視する。特に、昨今、新聞は購買部数の激減を受け部数を維持するための紙面が増加した。テレビも同様に視聴率がSNSなどに奪われて、内容も視聴者受けの良いものが重点になった。
 新聞による世論作りの先頭に立つのは朝日新聞であろう。かつての大新聞の栄光はがた落ちし、終焉の危機に瀕している。その中で国民の興味を引き付けるために、なりふり構わずキャンペーンをする。現在、最もバカげた議論を繰り広げている政治資金規正法の問題だ。
 2023年12月に自民党・安部派のパーティ券収入不記載も報道をした。不記載報道は正しいが、それに脚色し、キックバック・裏金と報じた。そして問題は法律違反ではない問題まで、違反と変色した。パーティをすること・政治献金を受けること・党で得た資金を自由に運営することなどまで、違法と脚色した。おまけに派閥罪悪論まで、意趣返しが起こった。勢いあまって連座制の導入まで言い出した。このようなことを禁止したり、導入することは憲法に保障された思想・信条の自由に侵犯することだ。
 さらに悪いのは、自社で検証・調査もしていない他の新聞社やテレビが記事を作り上げるために、事の真偽を確かめることもなく、悪と報道を繰り広げた。こうも各所から連日「悪」と報じられると、国民は、真偽の確認判断もすることなく、信じてしまう。人間は誰でも、批判することは大好きだ。
 メディアは、すぐに世界ではと比較論を引き合いに都合の良い論調を展開する。政治資金法の問題は日本の問題であるが、世界の国でこのような日本の議論をニュースバリューとして、報道している国は皆無だ。それを半年も国会議員が本業として、議論しているのは税金泥棒だ。メディアが視聴率という儲けのために議論している姿は滑稽を通り越して、腹立たしい。

高齢者の定義 65→70歳位に

 高齢者の定義を65から70歳に引き上げる案が議論されている。まず浮かんでくることは、企業の定年年齢問題と年金支給開始のであろう。いずれも背景の事情は少子高齢化の問題である。
 定年の繰り上げは平均寿命の向上からして、自然の流れであろう。長く働きたい人の気持ちは、身に着けたスキルを発揮し続ける喜びと将来の金銭的不安がある。働きたくない人は、早く自分の自由な時間を得たいことであろうが、その人は働いて老後の資金を確保する必要がある。いずれにしても、自分の能力・実績を現役の時に身に着けることができるかに関わっている。
 年金の問題での意見は、当人の働いてきた結果と身に着けられる能力に関わる。基本的には多くを納付(貯蓄)した人ほど多くの年金が得られる。自分の生きてきた結果が将来に反映される現実から逃げるわけにはいかない。酷な言い方だが、不満な人は生きてきた過去に自分で責任を持たなくてはならない。日本は社会主義国家ではない。基本的には自分のことは自分で解決しなくてはならない。他国と比べて幸いなことは、最低限の生活は国が養ってくれる。
 高齢者の定義を見直さなくてはならないのは、国民の物的身体的問題である。政治家に変革を求めるのはそれで当然だが、自分が変革を避ける国民では、単なる自己中心主義者でしか無い。特に壮年・青年層は、このような問題は自身が生み出し、自身に跳ね返ってくることは覚悟しなくてはならない。自分の現在に固執して、将来的な〝労働力〟と〝財源〟を残さなく、そのツケは自分に跳ね返ってくる結果となった。子孫が残らなくては、自分を支えてくれる人がいないということだ。若者は自分単でなく、若者単位で子孫を育てなくてはならない。

メディアの実態--[3]報道の不公平と価値判断

 最近、日本人のメジャーリーガーの活躍が多くなった。嬉しい気分だ。これもメディアが報道しないと、知ることができないことだ。大谷翔平の活躍は同じ日本人として誇らしい。それに比べて、大谷ほどではないが活躍している選手もいる。それらは、数字結果として列挙にとどまることが多い。
 NHKと言えば、公共放送だ。ここ数年のメジャーリーグ(MLB)の放送が気にかかる。端的に言えば、大谷のいる球団(現在は、ドジャーズ)の試合は必ず放映される。日本人投手の在籍する球団の試合は投げるときには放映されることもある。野手の在籍する球団の試合も放映されることもある。放映される試合に日本人選手が出場しないときは、どのように考えればいいのだろう。
 単純にMLBの試合を見たくて見ている人は、どれくらいいるのであろう。日本もワールドシリーズで優勝するくらいに、鍛えられて選手の技量も向上した。このような言い方はしたくないが、余りMLBの試合で学ぶことはなくなった。腕力では劣るが技量では日本が勝っている。このような状況で公共放送であるNHKが長々と放映していいのであろうか。NHKはMLBの協賛機関となり下がったのか。大谷以外の選手の活躍ももっと公平に報道すべきではないのか。プロ野球(NPB)の放映は、身近なファンとしては放送が少なく寂しい。
 NHKに限らず、他のメディアの報道の仕方を考えないと、個人的な報道機関と思われても仕方ない。〝大谷、大谷…〟でうんざりだ。出演者全員が、自分の持ち物であるかのような自慢報道をする。そのようなことは、打ち合わせ時間や、プライベートな時間で楽しんでほしい。大谷は好きだが、軽薄な出演者たちのために、大谷が嫌いになる。誠也は、吉田は、今永は、菊池は、ダルビッシュは、…はどうしたのだ。
 大谷報道にかまけて、ニュース報道の公平性や価値判断がくるっている。視聴率を考えすぎ、国民の価値判断や努力の過程を軽視している。
 「大谷、がんばれ!」、「メディアは、託された役割を果たせ!」。

偽善者、立憲民主党

 相変わらず、政治資金規制に関する議論(?)が続いている。パーティ券の公開基準が、自民10万円、公明5万円、維新5万円以上、立憲はパーティ禁止と主張している。その最中、パーティ禁止を主張している立憲の幹部数人がパーティを予定していることが判明した。規制案が決まっていない段階であるから、問題ないと開きなおた。党の本質をさらけ出した偽善だ。
 このようなダブルスタンダードが自民党であった場合は、メディアは延々と批判の番組を続けていたが、メディアは軽く報道するにとどめている。メディアが詭弁野党をのさばらせ、メディア自身が詭弁で固められていることをさらけ出した。自民党は政権与党であるから、批判を多く受けることは不自然ではない。問題は、批判をする企画概念で番組が進行する、メディアのあり方だ。まったく世界史的視野が無いことは、日本の将来を誤らせる。
 立憲が主張する、パーティ禁止はメディアの波に乗って国民に耳障りの良い印象を与える。政治は〝清い物〟と、政治を道徳的側面だけでとらえることは、国際的には棄権で不安極まりない。そもそも立憲自身にパーティ禁止の気持ちはない。立憲の創設者と言える小沢一郎は明確に禁止すべきではないと言っている。自民党は派閥云々と言ってきたが、立憲はもっと悪い一匹ウサギの烏合の集団だ。選挙目的に綺麗ごとを並べ禁止と言っているが、腹の中はどうせ禁止という形で法案はできないと分かっているから、できもしない反対意見を言っているに過ぎない。過激な行動に出る政党も危険だが、国民の好みに付け込んで詭弁を弄する政党も危険だ。

大学授業料と教育の実態

 東京大学が授業料を10万円程度値上げしたい意向を示した。10万円は国が示している大学独自にゆだねられた上限の20%に相当する。教育の充実を図るとのことだ。東大と言えば日本でナンバーワンの大学だ。しかし世界の於いては30位程度に下落している。授業料が値上がりしたことによる学生減は無いであるう。それで充実するのであれば、値上げすればよい。一時も早く、世界に輝く成果を上げてほしい。
 中央教育審議会の座長が「国立大学の授業料は今の3倍の150万円に値上げすべき」とほのめかした。彼の立場は首都圏の私立大学の長である。大学の長である者は学問は勿論、公私の違いや経済感覚や国の行く末考える頭を持ってほしい。地方の再生に苦労している地方大学にとって、国立大学は重要な存在だ。貧しいが向学心のある学生にとっても、唯一の希望だ。彼らの希望を砕いてはならない。そのために、全道府県に国立大学は設置されている。大学の将来を考えるのも大切だが、国の将来を考えることが中央教育審議会の大切な仕事だ。
 短大・専門学校を合わせて大学の進学率は、84%に及ぶ。数字だけを見れば世界に誇れるが、教育の実態を見ると、無駄な青春時代を送っていることでもある。少子化時代を迎え私立大学の将来は暗い。耳障りのよい〝公平〟がいまだに忘れられず、現実を考えられない大学がいつまでも存在すること自体が間違いだ。アメリカなどには授業料500万円前後の大学がざらにある。それでもその大学は狭き門だ。経営だけに汲々として、学問の充実を忘れている日本の大学は大激変の淘汰をされなくては存在意義がない。
 学生も親も、〝大卒〟の意味を、考え直す時期は数十年前に来ているはずなのに、今だ実行するに至っていない。子供を産み育て・自立に育てる連続的思考を放棄した逃げ腰の国に将来はない。