〝憲法記念日〟に思う

75回目の憲法記念日を迎えた。75年と言えば、ほぼ平均寿命に等しい。新しい世代が育ち、古い人に敬意を持って引退していただき、これからの日本を創造する新しい血が必要だ。その国体の基本原則が憲法だ。誰だって今の憲法が時代の実情にマッチしているわけではないことは解っているはずだ。それでも崇高なものばかりであるというのは、変革・進歩を放棄した怠慢な考えである。家庭が企業が地域がより良く変化しなくてはならないと、口酸っぱく偉そうに言うくせに、なぜ憲法については変わってはならないというのか? 憲法以外で75年も変わっていないものが他にあるだろうか?
冷戦の時代には欧米・日本の技術革新で社会主義陣営が衰退し、その間第3世界は停滞と混迷したままであった。良い方は良い方に変化し、悪い方は悪い方に変化した時代だ。ソ連が崩壊し、社会主義諸国は混迷を深めた。欧米や日本は相対的に影響力を無くした。その間に中国が漁夫の利で台頭した。そして国を維持するために権威主義国家の形に助けを求めた。その間、日本は残り火でひたすら食いつなぐのみであった。

気が付いた時には中国・ロシア・北朝鮮の核の脅威に取り囲まれていた。75年の間、国を守る方策を考えるでなく、空虚な議論を重ねてきた結末だ。権威主義の国は一般的常識を覆すことを平気でする。またその国の特徴は独裁という形式をとる。要するにレーニン・スターリン・ヒトラー・ムッソリーニ・毛沢東・習近平・プーチン達だ(日本の戦前の軍国主義時代には独裁者はいなかった)。独裁政権は国の矛盾を隠すために対外強硬路線を取らないと自分を維持できない。そんな彼らの大半が独裁政権にとって都合の良い社会・共産主義国家の人であったことを知り理解・対応しなくてはならない。
世界は自分の意志ではコントロールできない。外交努力・話し合いで解決すべきと言うが、それが出来なかった歴史がこの1世紀の間にどれだけあったことだろう。力のない口先だけの者が簡単に蹂躙されてきた。無防備な者から真っ先に抹殺されてきた。国民個々が自分の事として考えなくてはならない。ましてや政治家は国体を守るための憲法はいかにあるべきかを研究・議論しなくていったい何をするというのか。