最近、テレビでの漫才の放映が少ない。しかし、漫才師如き人が画面に溢れている。某局では漫才日本一を競う番組が毎年開かれている。そこを目指して多くの人が挑んでいる。研鑽を積んで実力を養成している姿には一目置くべきだろう。
『M-1』制覇を目指し、優勝したコンビは多くあるし、テレビに多く露出している。しかし悲しいことに、そこには漫才をしている姿ではなく、ただバラエティなどの漫才とは縁のない姿ばかりである。彼らはどこで漫才をしているのだろうか。大都会の寄席などでは観ることができるかもしれない、田舎のドサ廻りで見かけるかもしれない。普通の人はテレビを通して見るしかないけれど、そのテレビが放映しない。世の中は市場原理で動くが、もはや漫才は市場で必要とされていないのだろうか。テレビは冷酷に視聴率を前提に番組を造ることを信じれば、漫才は視聴率を稼げない芸になったのだろうか。
漫才を目指してきた芸人が行き着く先は、バラエティ番組の〝にぎやかし〟役に落ち着いている。当人もそれが解ってきて、稼ぎになるから漫才師は辞め芸人に満足している。いつの間にか漫才選手権はバラエティ芸人になるための登竜門と化した。寂しいことだが生活がある彼らを責めることは酷というものだろう。
問題はテレビにプライドが無くなったことだ。漫才師を育てると言う文化的責任感が失せたどころか、自局の視聴率向上を目指して、冷酷に彼らを道具として使い捨てる。それが解っているから、逆に冷酷に演じる姿を見ると、努力してきた過去を賞賛するどころか、軽蔑に近い視線で画面から目を逸らしてしまう。
独占的放映権を利用して国政は歪めて批判報道するだけのツールを与えられているのであれば、自分の手助けに利用するだけでなく、日本の伝統〝漫才〟を歪めてでも育てるテレビになって欲しいものだ。