高齢者の定義 65→70歳位に

 高齢者の定義を65から70歳に引き上げる案が議論されている。まず浮かんでくることは、企業の定年年齢問題と年金支給開始のであろう。いずれも背景の事情は少子高齢化の問題である。
 定年の繰り上げは平均寿命の向上からして、自然の流れであろう。長く働きたい人の気持ちは、身に着けたスキルを発揮し続ける喜びと将来の金銭的不安がある。働きたくない人は、早く自分の自由な時間を得たいことであろうが、その人は働いて老後の資金を確保する必要がある。いずれにしても、自分の能力・実績を現役の時に身に着けることができるかに関わっている。
 年金の問題での意見は、当人の働いてきた結果と身に着けられる能力に関わる。基本的には多くを納付(貯蓄)した人ほど多くの年金が得られる。自分の生きてきた結果が将来に反映される現実から逃げるわけにはいかない。酷な言い方だが、不満な人は生きてきた過去に自分で責任を持たなくてはならない。日本は社会主義国家ではない。基本的には自分のことは自分で解決しなくてはならない。他国と比べて幸いなことは、最低限の生活は国が養ってくれる。
 高齢者の定義を見直さなくてはならないのは、国民の物的身体的問題である。政治家に変革を求めるのはそれで当然だが、自分が変革を避ける国民では、単なる自己中心主義者でしか無い。特に壮年・青年層は、このような問題は自身が生み出し、自身に跳ね返ってくることは覚悟しなくてはならない。自分の現在に固執して、将来的な〝労働力〟と〝財源〟を残さなく、そのツケは自分に跳ね返ってくる結果となった。子孫が残らなくては、自分を支えてくれる人がいないということだ。若者は自分単でなく、若者単位で子孫を育てなくてはならない。

メディアの実態--[3]報道の不公平と価値判断

 最近、日本人のメジャーリーガーの活躍が多くなった。嬉しい気分だ。これもメディアが報道しないと、知ることができないことだ。大谷翔平の活躍は同じ日本人として誇らしい。それに比べて、大谷ほどではないが活躍している選手もいる。それらは、数字結果として列挙にとどまることが多い。
 NHKと言えば、公共放送だ。ここ数年のメジャーリーグ(MLB)の放送が気にかかる。端的に言えば、大谷のいる球団(現在は、ドジャーズ)の試合は必ず放映される。日本人投手の在籍する球団の試合は投げるときには放映されることもある。野手の在籍する球団の試合も放映されることもある。放映される試合に日本人選手が出場しないときは、どのように考えればいいのだろう。
 単純にMLBの試合を見たくて見ている人は、どれくらいいるのであろう。日本もワールドシリーズで優勝するくらいに、鍛えられて選手の技量も向上した。このような言い方はしたくないが、余りMLBの試合で学ぶことはなくなった。腕力では劣るが技量では日本が勝っている。このような状況で公共放送であるNHKが長々と放映していいのであろうか。NHKはMLBの協賛機関となり下がったのか。大谷以外の選手の活躍ももっと公平に報道すべきではないのか。プロ野球(NPB)の放映は、身近なファンとしては放送が少なく寂しい。
 NHKに限らず、他のメディアの報道の仕方を考えないと、個人的な報道機関と思われても仕方ない。〝大谷、大谷…〟でうんざりだ。出演者全員が、自分の持ち物であるかのような自慢報道をする。そのようなことは、打ち合わせ時間や、プライベートな時間で楽しんでほしい。大谷は好きだが、軽薄な出演者たちのために、大谷が嫌いになる。誠也は、吉田は、今永は、菊池は、ダルビッシュは、…はどうしたのだ。
 大谷報道にかまけて、ニュース報道の公平性や価値判断がくるっている。視聴率を考えすぎ、国民の価値判断や努力の過程を軽視している。
 「大谷、がんばれ!」、「メディアは、託された役割を果たせ!」。

偽善者、立憲民主党

 相変わらず、政治資金規制に関する議論(?)が続いている。パーティ券の公開基準が、自民10万円、公明5万円、維新5万円以上、立憲はパーティ禁止と主張している。その最中、パーティ禁止を主張している立憲の幹部数人がパーティを予定していることが判明した。規制案が決まっていない段階であるから、問題ないと開きなおた。党の本質をさらけ出した偽善だ。
 このようなダブルスタンダードが自民党であった場合は、メディアは延々と批判の番組を続けていたが、メディアは軽く報道するにとどめている。メディアが詭弁野党をのさばらせ、メディア自身が詭弁で固められていることをさらけ出した。自民党は政権与党であるから、批判を多く受けることは不自然ではない。問題は、批判をする企画概念で番組が進行する、メディアのあり方だ。まったく世界史的視野が無いことは、日本の将来を誤らせる。
 立憲が主張する、パーティ禁止はメディアの波に乗って国民に耳障りの良い印象を与える。政治は〝清い物〟と、政治を道徳的側面だけでとらえることは、国際的には棄権で不安極まりない。そもそも立憲自身にパーティ禁止の気持ちはない。立憲の創設者と言える小沢一郎は明確に禁止すべきではないと言っている。自民党は派閥云々と言ってきたが、立憲はもっと悪い一匹ウサギの烏合の集団だ。選挙目的に綺麗ごとを並べ禁止と言っているが、腹の中はどうせ禁止という形で法案はできないと分かっているから、できもしない反対意見を言っているに過ぎない。過激な行動に出る政党も危険だが、国民の好みに付け込んで詭弁を弄する政党も危険だ。

大学授業料と教育の実態

 東京大学が授業料を10万円程度値上げしたい意向を示した。10万円は国が示している大学独自にゆだねられた上限の20%に相当する。教育の充実を図るとのことだ。東大と言えば日本でナンバーワンの大学だ。しかし世界の於いては30位程度に下落している。授業料が値上がりしたことによる学生減は無いであるう。それで充実するのであれば、値上げすればよい。一時も早く、世界に輝く成果を上げてほしい。
 中央教育審議会の座長が「国立大学の授業料は今の3倍の150万円に値上げすべき」とほのめかした。彼の立場は首都圏の私立大学の長である。大学の長である者は学問は勿論、公私の違いや経済感覚や国の行く末考える頭を持ってほしい。地方の再生に苦労している地方大学にとって、国立大学は重要な存在だ。貧しいが向学心のある学生にとっても、唯一の希望だ。彼らの希望を砕いてはならない。そのために、全道府県に国立大学は設置されている。大学の将来を考えるのも大切だが、国の将来を考えることが中央教育審議会の大切な仕事だ。
 短大・専門学校を合わせて大学の進学率は、84%に及ぶ。数字だけを見れば世界に誇れるが、教育の実態を見ると、無駄な青春時代を送っていることでもある。少子化時代を迎え私立大学の将来は暗い。耳障りのよい〝公平〟がいまだに忘れられず、現実を考えられない大学がいつまでも存在すること自体が間違いだ。アメリカなどには授業料500万円前後の大学がざらにある。それでもその大学は狭き門だ。経営だけに汲々として、学問の充実を忘れている日本の大学は大激変の淘汰をされなくては存在意義がない。
 学生も親も、〝大卒〟の意味を、考え直す時期は数十年前に来ているはずなのに、今だ実行するに至っていない。子供を産み育て・自立に育てる連続的思考を放棄した逃げ腰の国に将来はない。

メディアの実態……[2]番組の私物化

 テレビ番組は大きく分けて、自社制作・下請け委託・プロダクション採用・他メディアからの購入などがある。経費の削減を目的に下請けに依頼する番組も多くなった。自社と下請けが連携するものがあれば、プロダクションに丸投げのものもある。丸投げすれば、制作後異論があっても、そのまま放映されることが大半だ。これの典型的な番組が『サンデーモーニング』(TBS、関口宏のプロダクション)であろう。今年3月で36年の放送が、後任の司会者に引き継がれた。〝ホット〟したが今後のことはわからない。
 問題の番組は、自プロダクションのメンバーが多く含まれ、長きにわたって固定されていたことだ。さらに問題なことは、〝左翼リベラル〟的人物で構成されていたことだろう。報道の原則の〝公平性〟がまったく無かった。時事を分析するのではなく、批判を目的に話し合う〝サロン〟であった。左翼思想(反政権)者ばかりの集まりであるから、肯定・賞賛の意見は皆無で、いかにして悪と思わせるかの批判者集会であった。
 プロ野球やサッカーの元選手に題材に解説を織り交ぜていたが、固定された個人の意見をしゃべらせる。当然、個人的意見で面白可笑しく演出する。良いとは言わないが、これはエンタメ分野であるから良しとしよう。しかし毎回顔をそろえるメンバーは、前述のような所業であるから、明らかに報道倫理違反だ。エンタメを利用して独善性を視聴者に押し付ける。監視する機関に「放送倫理・番組向上機構」や「番組審査会」がある。NHKにはたまに会の注文が入るが、テレビ局もこれに加盟している。36年とは言わないが、数十年の長きにわたって、偏向報道を繰り返してきた番組に審査の目が向けられることはなかった。政治を批判する前に、テレビ自らを批判することが必要だ。何よりも危険なことは、視聴者を自分たちの意見に刷り込ませる狡猾さだ。何ら取り柄のない人物により、国民の頭が洗脳される悪例の一つだ。
 昨年は、ジャニーズによって、事実上番組が乗っ取られ私物化されていた件が、俎上に上がったが、責任はジャニーズに押し付けて、テレビは改善されることはなかった。

政治資金改正、暇な議論

 昨年の政治資金パーティ券不記載問題から半年。政治倫理審査会を開いたりなどで、国会はかなりの時間が空転した。野党は攻勢に専念し、最近はニュースや番組で政治資金の番組を見るのも嫌気がさし、チャンネルを変えたりスイッチを切ることも多くなった。守るほうも、攻めるほうも、報じるほうも考えを変えて欲しい時期が来た。
 政治資金法改正の概略は、企業団体献金をいくらにするかと禁じるかと、資金収入の記載の方法と、議員と事務方との連座制であろう。献金は多額なものは禁じ、外国人献金を禁ずるべきだ。収入の記載は常識の範囲ですべきだ。連座制は議員本来の政策・政治のために事務方が必要なわけで、本業に専念するためにも事務方に任せるべきものだ。いちいち財布を確かめる、暇な議員は必要ないし、そのために不記載が裁かれるべきだ。
 与党の自民党と公明党は献金額の額で一致を見ていない。野党は政党活動費の廃止を言っている。議員の収入は報酬と政党活動費と献金と政党助成金などがある。報酬と政党助成金は基本無条件で得ることができる。政党活動費は活動しないと得られないし、座っていたら献金は得られない。要するに活動する人ほど多くの収入がある。その活動の足を引っ張ているのは、メディアや識者に操られている国民だ。
 日本は政党政治を行っている。諸外国に比べて、政治への参加は自由度がある。いい意味でその自由度を国民が委縮させてはならない。そのためには政党として個人として自由でなくてはならない。その政党政治の自由を規制しているのが政党助成金であり、それは国民の税金だからだ。議員の力量や発想を国民はメディアを通して、活力のないものにしている。政党助成金を廃止すればよい。それで初めて政党政治の活力が生まれる。
 与党の自民党と公明党の意見が分かれていると、野党は問題にする。国を運営する問題ならともかく、政党の方針を決める問題で意見が違って何が悪い。合わなければ、連立を解消すればいい。こんなことに食いつくだけだから野党は、批判の政党で終わってしまうのだ。
 30年前に政党が分裂して、結果的には混迷しか生まなかった。現在は混迷を一刻も早く断ち切るために、政党が新しく生まれ変わる時期が来た。

中露首脳会談の茶番

 習近平とプーチンによる中露首脳会だが北京で行われた。新しい任期5回目を迎えたプーチンが早速、北京を訪問したことはどことなく滑稽である。普通であれば、会うのであれば就任を祝って習近平がモスクワを訪問するのが筋であろう。もはや、ロシアは中国のジュニアパートナーとなり下がった。
 かつて中国の王朝は周辺国を属国とし、朝貢をさせた。経済力をつけた今の中国もやっと念願の朝貢スタイルを築けることに、さぞ満足していることであろう。経済制裁を受けているロシアがウクライナ戦争のための武器に欠乏し、調達を外国に依存しなくてはならない状態であることは明白だ。習近平はウクライナ戦争を「政治的」に解決したいと主張したが、プーチンは「軍事的」に解決するしか方法がない。もはやロシアは朝貢によって、軍備を中国から得るしか方法がなくなっている。昔は朝貢国に対しては多額の返礼を与えたが、今の中国にはそのような習慣はないし、第一その余裕はない。福島原発の処理水を汚染水と懸念する共同声明を出すなど、属国としての態度の典型であろうが、何の効果もない。
 経済的低迷をさらに、増幅することは間違いない中国。アメリカとの対立を深める中国の活路は欧州と日本しかない。さらにロシアとも関係を深め、支援を続ければ、欧州からも見放される。南シナ海でも侵略を繰り返すASEAN諸国から朝貢関係に期待することもできなくなる。そうなれば、国家主導の生産・強制労働で製造した低コストの製品で、成り立ってきた製品の販売先は購買力のないグローバルサウスに頼るしかないが、その購買力はない。しかし、そのグローバルサウスもやがて〝ローカルサウス〟に変貌するであろう。
 ロシアは、世界にとって中国にとっても、〝危険な、お荷物〟であることは、明らかだ。

メディアの実態……[1]報道倫理

 報道倫理には以下の要素が含まれる。
① 正確性: 報道は真実で正確であることが期待される。誤った報道は人権の侵害につながる。
② 公平性: 取材対象者や情報源に対して公正であることが求められる。
③ 取材源との関係: 取材源との信頼関係を構築し、情報を秘匿することがある。
④ 取材対象者の人権: 個人の人権を尊重しながら報道を行うことが重要。
(報道は真実を広く伝え、市民の知る権利に奉仕し、人権を尊重する自由で平和な社会の実現に貢献する使命を担っている)。
 正確性の①ついて。テレビは新聞や雑誌記事を引用することが多い。自分の足で現場を洗うこともなく、速報性を重視し報道する。安易で危険な手法と言える。
 我々が特に注意しなくてはならないのは、②の公平性であろう。特に政治に絡む報道は新聞・テレビによって分かれる。新聞社の一般的傾向は政治的右からサンケイ→読売→共同通信(地方紙)→朝日・毎日の傾向がある。つまり日本維新→自民党→公明党→立憲民主党→共産党との相関性がある。テレビと新聞の関係はフジ(サンケイ)、日本テレビ(読売)、テレビ朝日(朝日)、TBS(毎日)の資本関係がある。当然、政党とメディアの関係はないが、実際の報道は前記の関係性を維持することが多い。日経(テレに東京)は経済を主体とし、政局については上記ほどの関連性は薄い。以上のことは、断定しているわけでは無い。新聞・テレビに接するときは、頭に入れておいたほうが良いこともある。要は広い報道に触れ、体験を積み的確な判断を持つことが肝要だ。
 ③の取材源では、テレビのワイドショーを中心に新聞や雑誌の引用が多い。新聞社の性格を頭に置くことも大切だ、また、雑誌の記事を引用することも多いが、自らの取材能力の無さを露呈している典型だろう。
 次に④の人権について。事件などで、当事者の家族・親戚や周囲の人に質問することも多い。目立つのは家族に対する質問だ。人権と叫ぶメディアが家族の人権は考えないで、取材をエスカレートすることも多い。成人した大人の犯行を家族に質問するなどは、モアハラを通り越して、パワハラだ。
 メディアによって、任された範囲は異なる。
雑誌:私的な営利機関であるから、極端に言えば何を書いてもよいが、人権は守らなくてはならない。(購読は個人に任されている)
新聞:雑誌と同じく私的な営利機関だが、社会的存在を認められているから、雑誌のように恣意的な報道が過ぎることは、モラルに反する。
テレビ:国から電波を任された営利機関。儲けるために自由な報道はできるが、モラルに反することは許されない。つまり冒頭の4つの要件を最も満たさなくてはならない。

〝憲法記念日〟と国際情勢

 憲法記念日を今年も迎えたが、近年は単なるゴールデンウイークを彩る祝日と化している。改憲の言葉はよく出てくるが、言葉に終始している。今の実情に似合った内容に改正することは当たり前であって、人の一生に該当する年月を維持し続けていることの異常さに気づかないことは、将来の子孫に対しての遺産を放棄したことに等しい。
 改正というと、頭に浮かぶのは自衛隊の問題だ。それはそれで正しい。問題は今後の情勢に対してどのようにするかだ。長く、日本はアメリカの傘の元冷戦時代を乗り切ってきた。その後の低迷期も直接武力による影響がなかったために放置され続けた。テレビでは連日、ウクライナ戦争・ガザ戦闘などが報道されている。大半が直接的に日本に関係ないと、胡坐をかいて報道される。真剣そうに話す、その裏は他人事で報道される。〝もしトラ〟と言葉遊びの報道をするが、現実的な正しい報道はされない。
 言われるように、プーチンの所業は、世界はこれまでの思考を打ち壊し、〝やったもの勝ち〟を現出した。軍事的には長らくアメリカの庇護のもとに安逸を過ごしていた日本は、これほど報道しても、世界の変化に気づかない。プーチンが勝つと次は中国・習近平の番だと言うだけで、何をすればよいのか具体化されない。
政局は、半年もの長きに渡って政治資金不記載問題に明け暮れ、進展しない。ほんのわずかな犯罪を国を揺るがす問題だと化かした野党(立憲民主党)とメディアの作為的所業は、国を混迷させた犯罪だ。それにまともに取り合って、時間を空費した自民党もふざけているが、岸田首相も本来の政治をなおざりにして、付き合っている。解散でも、総選挙でもいい。在職の国会議員を洗いざらい国民の信託にかけて、一刻も早くするべき政治をして欲しい。
今の世界は〝20世紀型民主主義〟と〝19世紀型帝国主義〟の戦いに変容している。中国・清が帝国主義列強に浸食されたように、ウクライナが浸食され、帝国主義志向のロシア・中国が世界を浸食しようとしている。
イラン・北朝鮮・イスラエルなどが、それを助長している。「戦わないから、許してください」が通用するとでも思っているのだろうか。憲法を改正して、正義が通用しない事態に備えなくてはならない。

いつも脱線し、支離滅裂の〝朝までテレビ〟

 テレビ朝日の『朝までテレビは』は長寿番組だ。議論を戦わせるナマ番組が少なくなている昨今では希望の星だ。比較論だが思想的に偏りが少ないところは貴重だ。先日、「アメリカの大統領は、バイデンかトランプか」のテーマで放送された。最初はテーマの沿って進んでいたが、いつの間にか岸田政権批判の日本政治に化けた。業を煮やしたディレクターが本題に戻るよう要請した。しばらくは戻ったが、再びSDGsに熱中してしまった。司会もそうだが、総合司会までその話題を催促する始末になった。
 司会者は最近特に、自分の得意の分野に話題を移すことが多くなった。司会者の役割は議題をスムーズに進行させ、偏らない発言を引き出すことだが、最近はどの番組でも自分が司会者であることを忘れ発言者に変貌することが多い。またテーマに外れた場合に軌道修正ができない。出演者も自分の意見を言うことができず、一般論ばかり話す。バイデンはトランプかと聞いているのだが、自分にとって日本にとって世界にとって、どちらがいいと言える者のが少ない。次のどこかへの出演を意識して、うやむやな一般論しか言えない。
 出演者も回を重ねると、テーマに関係ないことを平気でしゃべる。実態はテーマに対する意見が言えないために、自分のテリトリーに話題を移すわけだ。若い人に多いのは、自分の知識が薄いために、人はこう言っていると、代弁する。また若い人のほうが、自分の考えに固執して、老人のごとく学ぼうとしない。出演者も固定することが多く、テーマに関係なく彼らの意見ばかり聞かされて、満腹気味だ。
 時間が長くて、話題に集中できないのであれば短くすべきだろう。逆に言えば、時間を活かすことのできないメンバーしかいないのであれば、番組担当者の問題だ。支離滅裂に陥っている原因は後者の、メンバー選定の失敗であろう。男女・年齢平等を謳っているのであれば、それは間違いだ。あくまで意見の平等を選定の基準とし、稚拙な平等主義で出演者を選ばれたら、視聴者には迷惑だ。