福島原発の処理水

 福島原発の処理水を夏を目途に放出すると目論んでいるが、中国と韓国野党が反対している。呆れるのは海水浴シーズンは避けて欲しいと言った公明党山口代表だが、もっとひどいのは韓国野党の抗議集会に参加した立憲民主党の山口知子達だ。地元漁民が反対する気持ちは理解できるが、それを煽っているんが彼女のような輩だ。
 反対している国の原発のトリチウム排出量(単位・兆ベクレル)は、次の通りだ。
本:福島(事故前)2.2 処理水22、世界保健機関(WHO)の飲料水基準の7分の1に希釈
韓国:月城71、古里49(いずれも韓国南東部)

中国:紅沿河原90(黄海)、泰山143(中部)、寧徳102(中部)、陽江112(南部)
明らかに中国・韓国の放出は日本の比ではない。しかも海流の関係でいずれからも日本に到着する。反対に日本から中韓に到着する可能性は天文学的確率・ゼロだ。IAEA(国際原子力機関)も安全とのお墨付きを出している。反対しているのは、政争の具にしたいだけであることは見え見えで、そのような言動は国際社会の信用を失うだけだ。にもかかわらず中国は、輸入水産物の個別検査を行うとした。香港までも忖度し追従したことは、もはや香港の自由は無くなった。
 日本の漁業・輸出関係者には打撃があることは事実だが、輸入が途絶えて困るのは中国の市民であり業者だ。目先のニンジンしか見えない中国指導部の危うさがまた見えてきた。政府の支援も必要だが、事故を起こした東京電力は充分な対応をする必要がある。東北産の農水産物を積極的に食して、安全性をアピールすべきは東電関係者の義務であろう。

EVは本当に、地球に優しいのか?

EUがドイツの要求を受け入れて、35年までのエンジン車の生産を許可した。発電などで発生したCO2と水素の合成燃料を燃料として利用する。CO2の排出はプラマイ0だ。EV一辺倒であったEUもロシアのウクライナ侵攻に伴うエネルギー危機で再考せざるを得なくなった。日本でもトヨタなどが同様の方法を模索している。既存のガソリンスタンドが活用できる利点はあるが、水素の生産に現時点ではコストがかかる。時間との勝負かもしれない。
車のEV化は確かにCO2排出は除去できるが、問題は電力を得るまでの過程だ。再生エネルギーはエネルギーそのものは理想だが、多大な環境問題を伴う。風力にしても太陽光にしても条件によって大きく左右されるし、それに伴う他電力からの供給が必要だ。山を削り緑を削減する設置は美観を損なうだけでなく災害を誘発する。多量の電池が必要であり、それに伴うリチウムなどの鉱物資源が必要だ。これらの採掘に多大なCO2排出が伴うし、中国などの資源国に左右される。太陽光パネルは中国の独占状態にあり、危険だ。
グローバル・サウスと呼ばれるアジア・アフリカなどの発展途上国が電力インフラを整備することは多大な時間と資金が必要だ。増々世界から取り残されるであろう。これはエンジン車であろうがEV車であろうが、どちらにしても同じことだ。
車のEV化の問題は、地球温暖化回避と言う美名を利用したビジネスの問題だ。劣勢の起死回生の方法としてEUと中国が打った手だ。そこには明確なエビデンスはないし、確かな根拠もない。世界は改めて本当の省エネと地球環境を吟味するべきだ。

東アジアを安定させるために

岸田首相が尹韓国大統領と会談した。前政権の時代とは隔世の感がある韓国との関係である。元徴用工問題は韓国の姿勢にやっと光明が見えた。半導体素材の輸出管理が緩和されて、韓国はWTO提訴を取り下げた。GISOMIAも本来も姿に戻った。過年の大きな問題は韓国軍のレーダー照射問題が残っている。
韓国と付き合う難しさは、自尊心と劣等感の共存する国民性だ。途切れることなく続いた中国の属国としての歴史が形作った国民感情だろうか。その中で自尊心を維持できたことは民族のプライドであろうか。現在は、一人当たりのGDPでは日本に並ぶ勢いだ。GDPレベルで日本を追い越すことはないであろうが、かつての宗主国(?)日本を追い越すことは大変な喜びであることは理解できる。隣国同士、補い合って発展したいものである。
韓国の問題は、左派政権になった時国際常識を守れないことである。文政権の時そうであった様に、北朝鮮に身売りをしかねない思想の持ち主である。これでは手と手を取り合って発展することはできない。朝鮮と言う国を理解して、保守派韓国政権が維持できるように協力することが必要だ。しかし、間違っても妥協をすることはしてはならない。

もうウンザリ、国会の暇つぶし

「放送法の政治的公平性の解釈を巡る総務省の行政文書」について立憲民主党の議員が当時の総務大臣の高市早苗議員を追求している。おまけに高市議員も「捏造」「責任があれば議員辞職」などと発言した。もともとこの問題は磯崎氏に対するものであったはずが、話を広げるために高市氏に飛び火した。
そもそもこの文書は、8年も前の事であり、年間数百万の文書が作成される中の一文書に過ぎない。このような状況の中、多忙を極める大臣が明確に記憶をとどめておけるとも思えない。客観的にみて、TBSの『サンデーモーニング』は政府批判のメンバーが集まった同好会的番組で〝カツ〟の言葉にひかれて見ていた番組で、彼らの余りな政治的偏向に嫌気がさし見なくなった人は多い。これは番組のみならずTBSに巣くう報道の公平性に反する作為に間違いない。
その放送法への審議をするのではなく、政府・個人批判にのみ時間を浪費するのは、ガーシー同様税金の無駄遣いだ。事実上来年度予算が可決成立している現在、何かしないと国会(参議院)の体面が保てないからと言って無駄な議論をして欲しくない。いっそ国会を閉会して、これからの日本を導く議論を本気でしたらどうか。

個人の自由を優先すれば、出生率が下がるのは当たり前

2022年の出生数が80万人を割った。予算も審議中であるが、岸田首相が「異次元の少子化対策…」から「次元の違う少子化対策…」と言葉を変えると、野党もメディアも相変わらず言葉遊びに時間を費やしている。自分たちに与えられた時間を消化することに脅迫されて、全く生産性がない議論に終始する。
先ごろ意見の交わされたLGBTについても同様の切り口で、言葉遊びに空費した。結論から言うと、LGBTを許容するということは出生数を減じることに異論はない。生命としての生産活動を拒否しているから当然である。その頃LGBTを許容していたメディアは、個人の自由と言う美名のもとにそれを礼賛していたが、いざ出生数が80万にを割ると政府を責めるだけで、その回避方法はおろかそのメリットは述べない。
戦後、団塊の世代を生んだ昭和20年代、明るい将来を描いて片手の数の子供を設けた家庭は多くはなく、自然体で社会に身を任せた。それでも不自由と赤貧の中から労働力を準備して高度成長の担い手となった。景気が子どもを産んだのではなく、子どもが景気を支えたのだ。
いつまでも政府に頼る扇動は、高齢者に頼るに等しく、そこからは何も答えは得られない。特に若者は、目の前のニンジンばかり見るのではなく、自分の老後を支えてくれるものが何であるかを理解して欲しい。その人たちを、自分の生活ばかりを考えるメディアの犠牲にしてはならない。

国と国は対等の条件で付き合うべき‐‐‐土地の売買

中国人の女性が沖縄県の無人島を買い取ったと報じられた。島の6割の面積を占めると言うが、使用目的ははっきりしていない。今は単なる投資かもしれないが、地政学上も米軍との演習上からも無線の傍受が十分に可能な位置である。また、中国は民間・個人であっても要望があれば、共産党に協力しなくてはならない法律がある。
先般、「重要土地等調査法」は施行された。その概要は、防衛施設・原子力関係施設・国境離島周辺については土地の売買を規制するものである。言葉は立派であるが、北海道・東京都・青森県・島根県・長崎県に留まっている。既に北海道や観光地などの多くの土地が中国人の手にある。
WTOの加盟条項の中で日本は土地の売買を規制しないことを謳っている。従って、土地を買われることは法的には合法である。しかし、国と国との間にはアンフェアなことがあってはならない。中国は土地を外国人に売ることは禁じている。第一、土地は国の物であり、国民は70年の期限で貸与されるものであるから、絶対に土地を購入することはできない。しかし、日本は外国人に買われることはフリーである。
要するに、土地の売買を許していない国(中国)には、売ることを禁ずるべきである。それがフェアであり、当然なことである。早急に、WTO加盟規約を変更するなり、法を整備するべきである。

LGBT法案と同性婚は、分けて議論すべき

LGBTについて議論が活発になって来た。議論することは結構だが、背景の心理がいかにもお粗末な政治思想だ。G7の中でLGBTについての法が整備されていないのは日本のみである。5月には日本でG7が開催されるが、これでは恥ずかしいという発想である。恥ずかしいのは、誰だろうか。
LGBTとは、性的少数者の総称を言いう。 「レズビアン(女性同性愛者)」、「ゲイ(男性同性愛者)」、「バイセクシュアル(両性愛者)」、「トランスジェンダー(性別越境、性別違和)の頭文字をとって名付けられた。このような心理が人間に働く事は充分に考えられ得る。これをもって非難差別されることは、避けなくてはならない。G7に間に合う事ばかり考えないで、日本の実情を鑑みて熟考すればよい。
愛する者はやがて結婚する論からすれば、LBGTの問題は同性婚の問題を生み出す。社会は自由だけ切り出せば、混乱を生むだけだ。自由は義務(責任)とのセットで考えなくてはならない。同性婚に反対の意見を言えば、首相秘書官のように袋叩きにあうヒステリー状態で議論するより、頭を冷やして議論して欲しい。
自衛隊は憲法違反であると、言われて久しい。〝婚姻は両性の合意のみに基づいて成立する〟との文言はどこに書いてあるか?。両性とは男と女の事である。両者ではないのだ。憲法に明記されている条項だ。同性婚を許すことは憲法違反である。法案で片付く問題であるのであれば、9条も安易に解釈すればよいことになる。
憲法改正に反対する人に、LGBT問題を軽々に語って欲しくない。独裁者国家が跋扈する国際環境にまともに対処して、初めて議論できる問題だ。

〝オフレコ〟って、発表することなの?

荒井勝喜首相秘書官が,LGBTを否定する内容や「隣にいると気持ち悪い」などと言って批判を浴びて、岸田首相は更迭した。確かに多様性を考える内閣からすると、それを否定する発言だが、否定することも多様性だ。一番の失敗は、秘書官がメディアの前で喋ったことで、官僚は官僚に徹するべきであった。G7の中でLGBTを認めていないのは日本だけと言って、メディアは反日を言って喜んでいるが、その責任の一部はメディアにもある。世界の趨勢を踏んでいくことは、大切なことではあるが日本には日本の長い歴史に基づいた文化がある。その文化を理解しないで、単に世界の潮流に乗るだけで良いのかといった場面が沢山ある。勿論、個人の自由は尊重されなくてはならないし、世界の中で日本の存在感を示すためにはグローバリズムは大切にしなくてはならない。
人は内々の場面や無礼講の場面などで、仕事としては言ってはいけないことを言って日頃のストレスを解消することもある。その場面の一つが〝オフレコ〟であろう。ちなみに辞書には「記者会見やインタビューで語られた内容の一部を、公表したり記録しないこと」とある。今回の発言はオフレコであったにも拘わらず、メディアは発表したのである。LGBTはその約束を破ってまでも、メディアの批判の対象となる事項なのか?。背景には内閣打倒の明確な意思が働いて〝オンレコ〟にしてしまった。メディアも汚いが、当の荒井氏も岸田首相も、メディアの非や論理を重んじない野党に、非を訴えなかったのか?。勿論、政治の世界ではそんな理屈が通用しない世界に堕落していることは解っているが……。今は亡き安倍晋三は、自分の意見を堂々と首相としても、自民党員としても貫いた。岸田首相も内閣を放棄する覚悟で、正論は正論として述べることはできないのか。少なくとも内閣は倒れても自民党は下野することはないであろう。

相変わらず続く言葉遊び

岸田首相が国会の答弁で、子育て休暇中にリスキリングをして欲しいとの答弁をした。喜んだ野党やメディアは、子育てで休んでいる時に勉強はできないとか、子育ての実態が分かっていないとか批判した。翌日、首相は全般的にリスキリングを支援すると言ったと弁明した。
子育てが大変なことは、実際に育てた身としてよくわかる。しかし、実際にしがらみが嫌で核家族を選んで、一身に子育てを選んだのは自身であるケースも多い。少子化に対応しなくてはならない昨今の状況で、子どもを育てる人々に感謝をしても文句を言うつもりはない。当の家庭でも、自身で対応しなくてはと思っている人は多いはずだ。批判するための批判を望んでいるのは野党やメディアの暇な人たちだ。世論工作を潜ませた発言はいい加減にして欲しい。
個人が自分の一生を送るためには、20歳までの受動的に学んだ知識のままでは無理だ。特に変革が激しく短いこれからは、一生の間に数種類の職種を乗り越えてゆく必要がある。そのことは個々人が一番分かっていることだ。能動的にマルチの能力を並行して働かせなくてはならない。例え子育ての最中であっても、それを工夫するのが家族のためだ。批判に活路を求める野党はともかく、メディアはそれだけであってはならない。メディアは国民に食べさせてもらっているのであって、自分の考えを国民に押し付けてはならない。

〝少子化問題〟までも茶化すメディアの悪質さ

岸田首相が〝異次元の少子化対策〟を打ち出し3月頃の政策決定を目指し、会議が動き出した。早速、何時ものようにメディアが何も決まっていない先から興味本位とも否定とも思える報道を始めた。批判するのであれば内容が明らかになってからすればいいし、先導したいのであれば国賊にならない報道をして欲しい。
ワイドショーで〝母親になって後悔している〟との内容の外国の書籍を紹介していた。正にすべての内容が後悔の事例だそうだ。夢見ていたのと違う実態や苦労の連続で、子どもなど儲けるではなかったとの事例紹介と言う。否定論を集めれば山となるし、肯定論を集めても山となる。問題は何故番組はこの時期に否定論の書籍をわざわざ探しだして、託されている電波に乗せたかである。おまけに頭のいかれた自称脳科学者が、日本の古い慣習を実体験していないにも関わらず、どうのこうのと批判していることだ。弁当を作る苦労とか、子どもを介した社会づきあいとか数十年前の内容を未だ新鮮な事例として話すなどは自分の脳を解析して欲しいものだ。この番組の悪意に反論したのが、大家族で生活が苦しくても楽しく送っている家族もあると言ったのが外国人のコメンテータであったのは皮肉である。
少子化で困るのは今の高齢者ではない。現役で頑張っている当の若者である。若者が今の現実や立場でしか考えられないようでは、そのツケは自分が高齢者になった時に回ってくる。独り寂しく去っていく姿を、後悔しながらこの世に別れを告げる人生は送りたくないものだ。そうならない世の中を取り戻すために、先人も若輩で苦労したように、若者も刹那の安楽だけ求めるのではなく、人生のゴールを描いて生きて欲しい。増してやメディアに日本の将来を描く示唆のないものであれば、即刻退場願いたい。